用足し

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この洗練された社会は、人間は生理的機能というものを持たないという前提に立っている。排泄行為は「用足し」と称される。交尾するのは動物だけであり、人は愛を交わすものである。女性は汗をかかない。まして、おならなど医学上の現象にすぎない。

つまり、われわれはげっぷもおならもおしっこもうんちもしないのである。そういった下品なことは文明社会ではついぞ聞かれない。それなのに、食事の席が社交の場としてしばしば選ばれるのは非常に不思議なことである。食べるという行為には咀嚼、嚥下、溜飲、消化不良による種々の雑音、放屁など、数々の危険が伴う。文明社会においてはタブーとして忌み嫌われていてもおかしくないはずだ。

特に、デートに食事が好まれるというのには納得がいかない。好きな人の前で噛んだり、食らいついたり、噛みちぎったり、ほうばったり、飲み込んだり、飲み干したりできる女性がいるだろうか? どれほど進歩的な女性でも、ディナーデートでろくに食べ物の味もわからなかったという気まずい思いをしたことが一度くらいはあるはずだ。われわれはこのように人前で食するという危険を敢えて冒している。立派な毛皮を持った祖先は遠い記憶の今、食欲というむき出しの欲望を前にしても礼儀作法は保たれるとわれわれは過信しているのだろうか。

服装もそうである。人類の歴史とは体を布で覆ってきた長い歴史であるといっても過言ではない。裸一貫からスタートした人類が、十九世紀末にはびっちりと服を着こむようになった。幾重にも重なった服装の、その過剰なまでの「素肌を隠す」ことへのこだわりに、優雅、洗練のきわみがあった。それも理屈に反したことではない。洗練というのが動物としての本性を刺激しないように生殖器や体の部分をできるだけ隠すということであるのならば。

しかし、二十世紀の終盤にこの現象が逆行し始めた。人類はこれまで着こんできた服を一枚一枚脱ぎ始め、かつて下着だったものが今では堂々と日のもとで着られるまでになった。トップモデルたちが素っ裸でキャットウォークを練り歩く日も近いことだろう。これはどういうことだろう。ついに人類は自分が何者かを思い出し、人間社会という虚構は放り出して自然に帰ろうというのだろうか?

いや、そうではない。頑健な祖先の正装に近づきつつある一方で、われわれはまた毛をなくすということに異常なまでに固執しはじめているという事実に注目されたい。他国はともかく日本では、レーザー脱毛に通うのは女性だけではない。われわれは以前よりも素肌をさらすようになったかもしれないが、さらされた裸体は毛皮に覆われていたかつての肉体とは到底同じ種とは思えないような代物である(トップモデルがパリコレで裸を披露する暁には、その陰毛は現実にはありえないような形に完璧に手入れがされていることだろう)。

つまり、われわれは獣性などないと顔をして、きわどい場面でその洗練ぶりを試すという遊びをまだ続けているのだ。タブーとは、とどのつまり、つまらない社会を面白くするために自ら設けた制限というスパイスにすぎないのかもしれない。

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マニア

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日本語は難しい言語だとされている。ひらがな、かたかな、漢字と三種の文字をもつため、外国人には習得が困難だというのが一般的な(いくぶん国粋主義的な)意見だ。が、わたしはこれまで日本語が流暢な外国人を数多く見てきた。彼らはお箸と同じくらい上手に日本語を操る。これもまた日本人にとっては驚きの偉業なのだが。(ちなみに、彼らはたいてい厚かましくも日本人にしか理解できないはずの納豆すら大好きだということが多い。)

こういう非凡な言語学者たちは、おおまかに言ってふたつのタイプに分かれる。アニメファンと武道愛好家だ。どちらかといえば武道家たちのほうがより熱狂的な愛日派である。おそらく、逆境や克己を信条とするためだろう。

ダブリンに留学した際、わたしはホームシックのためか合気道クラブに入会した。驚いたことに、大男のアイルランド人の先生はそこらの日本人よりもよっぽど過激に日本人だった。道場では厳粛な秩序が保たれていた。クラスの時間が近づくと、誰が言い出すともなく、みんな何も言わずに左から右へと段位の順に一列に並んで座る。稽古中は無駄口をきく者などなく、投げられては起き上がってまた投げられに行き、優雅な「気」の踊りを舞うのだった。

というのはつまり、「敵」の手首をやさしく握ると、受け身をとれるように相手がそっとうながしてくれる、ということだ。わたしは常々合気道は「やわ」な人のための武道だと思っていた。クラブの面々をとってみても、誰一人として克己に燃えるストイックで攻撃的な武道家タイプではない。マッチョではないのだ。体格面のことを言っているわけではなく、まあ体格もそうなのだが、精神的にマッチョではない。取っ組み合いの喧嘩をする姿は想像もつかないような人ばかりだった。

最後の年に、見るからにほっそりとしていて優しそうなわたしの友人が部長になった。とても誰かをこてんぱんにのすような人ではない。当意即妙な受け答えで相手をやりこめるというのでなければ。それが、驚いたことに彼女は最近すっかり熱狂的な合気道家になりつつある。延々と受け身の練習をさせられた合宿のことを懐かしんだり、今の道場では男性陣が激しい技をかけてこないと文句を言ったりするくらいだ。

正直言って、彼女の気持ちはわかるところもある。わたしも帰国してから合気道をまたやってみようかという気になり、近所の道場に行ったことがあるが、秩序も何もあったものではないこの道場に大変憤慨したことがある。このときばかりは盾の会の一員になったような気分だった。

どんなにやる気のない者ですら、気がつくと思わず厳しい特訓を求めるようになっているのは一体どういうことなのだろう。これは武道が野蛮な過去の記憶を呼び起こすからだろうか。それとも、個々の人間などよりも大きな存在に身を任せてしまいたいという本能が刺激されるからだろうか。そういった意味で、武道は宗教と似ているとも言えるのかもしれない。宗教を信じる人には信仰がある。北朝鮮の人民には行進歌がある。ヒッピーにはマリファナと愛がある。日本には宗教や国家という屋台骨はないかもしれないが、それでも武道がある。熱狂的な武道マニアから正真正銘のやわ男まで楽しめる武道が。

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